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古典の効用だから四十代、五十代になってからはアランの著作集でも『徒然草』でも何でもいいから古典などを読むことをすすめたい。
また歴史書などは人間の英知と愚行の集大成だから、そういうものを読んだらいい。
マーケティング・スタッフでもそうである。
みんな、いまマーケティングのテクニックの勉強ばかりしているから、アイデアが浮かんでこないのである。
マーケティング・スタッフに大事なものは、平たくいえば、いったい人間とは何か、何を考える存在かということである。
これは歴史なり、古典が教えてくれる。
あるいは小説でもいい。
人間に対する洞察力がマーケティング・マンの思考の幅というものである。
そうすれば、最近の広告会社の調査マンあたりがいうように、大衆はかりに少衆化したところで、これが知衆化などするわけがないことが簡単にわかるはずである。
ともかくそういうところで四十代、五十代の勝負は決まってくる。
二十代はそんなところまでいく必要はない。
二十代、三十代が『論語』を読んでもわかるものではないし、あるいは逆効果である。
いい年をした若者が『論語』などがわかれば、これから先、確実に化石人間になっていくであろう。
四十代、五十代の人はただの会社人間が非常に多いが外の人に意識的にどんどん会っていくべきである。
また逆説的ないい方だが、週刊誌なども、もっと活用することをすすめたい。
週刊誌は現代の動きや流行の最先端にあるもので、非常に頭のよき体操になる。
いま何がはやって、何がブームになっているか。
その点では新聞はあんまり参考にならない。
単なるニュースの集大成である。
いま消費者が何にいちばん興味をもっているかが鮮明にわかるのは週刊誌である。
社会の変化や、時代の風向き、流行や価値の多様化に多少鈍感でも新聞は売れる。
そのことは新聞の読書欄をみても簡単にわかる。
いまどき、そこで紹介されているようなものはほとんどの人が読んでいない。
新聞を読むなといっているのではない。
新聞も必要だが旧人類の知識はあまりに新聞に偏りすぎるから、あえて週刊誌の効用を強調したまでである。
四十、五十代でハウツーものを読むサラリーマンはたいしたことがないというのは、四十代というのはむしろ自分で自分なりのハウツーをつくる時期だからである。
二十代、三十代は他人のつくったハウツーでいい。
まだ自分流につくれる状態ではない。
しかし四十、五十代になって自分でハウツーができないといけない。
サラリーマンはどうしたら出世できるか、派閥入りはどうすればいいか、勉強のやり方はどうすればいいか、そういう自分なりのノウハウをたくさん机の引き出しにしまっておけないといけない。
人から教えられるものではない。
人から教えてもらうのは、そのくらいの年代になったらハウツーではなくて知恵の部分である。
だから『N新聞』をどう読むかとかではなくて、『N新聞』くらいのものは、自分流の読み方をしないとだめだということである。
人に読み方を教えてもらうものではあるまい。
天下の『A新聞』でさえ、中曽根総理の差別発言を見逃している。
新聞情報や解説にも結構おかしいところがある。
やはり自分の判断力というものが大事だという自覚がないと、この情報洪水の中で、ただ押し流されていくだけである。
もともとサラリーマンのハウツーものは、たいていがデッチ上げくさいが、自分の能力や性格を、多少ともデッチ上げられるようになるのは、四十代である。
だから本当にしたたかな四十代のサラリーマンは、ハウツーものを読まないともいえる。
したがって四十代からは単なる実務知識やハウツーではなく、まさに知恵の部分の勝負に入る。
知恵の部分というのはいくら修業しても修業しすぎるということはない。
これが古典でもあり、歴史の研究でもある。
これは、マーケティング・マンに求められる資質ではない。
というよりマーケティング的発想力は、むしろこれからサラリーマン一般に求められている。
マーケティング・マンというものは、四十、五十になってきたら、人間何を考えるかという哲学的なところをもっと勉強しないといけない。
単なるアイデアや感性の最先端の部分では、新人類に勝てるはずがない。
古典で学んできたところや、戦史で教えられたところが、知恵である。
戦略を考える上でのベースになるもの、判断・決断の基本になるものが必要である。
ところが案外逆をやっている人が多い。
四十、五十になってからハウツーを読み出す人が多い。
近頃はむしろそういうタイプが増えている。
だから新人類あたりにもかえって甘く見られるのである。
いまの管理職のやっている程度の仕事なら、われわれでできる、ただ社内の人脈がないだけだというような可愛気のない言い方を新人類がよくしている。
とはいえ、いちばんいい情報はやはり人間が持っている。
実務家にとって情報とは常にフローである。
あと知恵にはあまり意味がない。
学者にはストックの方が大事だろうが、実務家にとって情報とは、結局のところそのつどの臨機応変の判断の体系のようなものである。
情報をいくら抱えこんでも、たいして価値あるものではない。
実務家たる、サラリーマンは、そのつど判断していかなければならない。
したがって情報は、解釈してくれる人、判断基準をもっている人、価値観をもっている人を日頃からもっていないと、とても活用できない。
一流の著者の本を読むこと、自分より能力のすぐれたブレーンをもっている必要がそこにある。
サラリーマンというのは、四十、五十になると疲れがいろいろとたまってくるから、自分と同等か自分より下の人間しか相手にしたがらないものである。
これは人情としては無理はない。
帰りの一杯飲み屋がかくも繁昌するわけである。
一杯飲み屋のストレス解消の効果をべつに否定するわけではないが、やはり四十、五十になってからは、ときには意識的に努力して自分よりレベルの上の人に会う努力をしなくてはいけない。
若いときは、ほうっておいても自分よりみんな上だから、そういうふうにして勉強する。
ところが、サラリーマンで四十、五十になるとしんどくなるから、自分の同僚か、下しか会わない。
自己満足気な情報しか入ってこないのも無理はない。
だからそのときこそ、意識的に上の人を大事にしなければいけない。
青年は必ず自分より能力も体験も上の人に会いたがる。
ほうっておいてもいいのである。
また勉強にしても、四十、五十代というのは何かとやりにくい年代である。
もう体力的にも疲れるし、仕事も忙しい。
だから自分流の勉強の仕方をマスターすればよい。
なにもねじりはちまきして勉強することはない。
自分はこれが好きだから、この分野をきわめてやろうとか、そういうやり方でいいのではないか。
好きこそものの上手なれという諺がある。
中年の勉強とはそういうものだと思う。
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